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2007年 02月 11日
「カラヤンとフルトヴェングラー」(中川右介著、幻冬舎新書)を読みました。カラヤンとフルトヴェングラー、かつて帝王と称された二人の指揮者が、ベルリンフィルの音楽監督の座をめぐり繰り広げる「権力と野望の物語」です。このような物語が書かれたこと自体、フルトヴェングラーやカラヤンの時代がすでに歴史となってしまったということですから、感慨が深いものがあります。私がクラシックを聞き始めた 1970年代はカラヤンの全盛時代、フルトヴェングラーは没後20年ほど経過し、「伝説の指揮者」といった印象で、EMIやグラモフォンから時折出されるモノラル録音や、放送用のライヴ録音など、音質が悪いLPを聞いて、「名演かもしれないけど、音が悪い」という印象を持ったものです。それでも、ウィーン・フィルとの擬似ステレオ版の「英雄」や「田園」そして「バイロイトの第9」など、さすがフルトヴェングラー、などと唸っていました。一方、この物語に登場するもうひとりの指揮者、セルジュ・チェリビダッケは当時、ミュンヘン・フィルの常任指揮者に就任していましたが、完璧主義者でもあるためか録音をほとんど拒否しており、レコードが出ない幻の指揮者としてマニアの間で有名でした。私はそれほどのマニアでもなかったので続々と生み出されるカラヤンの最新録音のLPでさまざまな曲を聴いて喜んでいるビギナーでした。カラヤンは新しく開発された技術をいち早く取り入れ、自身の演奏を映像として残すことも積極的に行っていました。モノラルからステレオ、デジタル録音のレコードからCDへと変遷していく中で定番曲は採録音を繰り返すカラヤンの最新の録音は音質もよく、それだけで満足をしていたところもあります。わざわざ「音の悪い古い録音」に手を出すほどの余裕はありませんでした。そして、単純に「フルトヴェングラーの後任はカラヤン、チェリビダッケは変人」とのイメージがこびりついていました。この構図ができあがる1955年頃までの物語で、面白く読むことが出来ました。
ベルリン・フィルの常任指揮者は現在のサイモン・ラトルが6代目、と言うことになっているようです。 * ハンス・フォン・ビューロー (1887-1892) * アルトゥール・ニキシュ (1895- 1922) * ヴィルヘルム・フルトヴェングラー (1922-1954、途中辞任し、復帰) * ヘルベルト・フォン・カラヤン (1955- 1989) * クラウディオ・アバド (1990- 2002) * サイモン・ラトル (2002-) 第2次世界大戦の前後、ナチスへの協力の問題などでフルトヴェングラーやカラヤンが指揮台に立てなかった時代があり、この間、ベルリン・フィルを支えたのが、レオ・ボルヒャルトとセルジュ・チェリビダッケの二人になるようです。ボルヒャルトの方は、終戦直後に常任指揮者となるものの3ヶ月後に米軍の誤射で亡くなってしまい、事実上チェリビダッケが常任指揮者となっていたようです。しかしながら、完璧主義者であるが故にベルリン・フィルと対立し、さらには信頼関係を築いていたフルトヴェングラーとの間もうまくいかなくなってしまいます。そのような状況の中で、カラヤンは「ベルリン・フィル初のアメリカツアー」のチャンスをうまく生かして、フルトヴェングラー亡き後のベルリン・フィル常任指揮者に就任します。米国と当時の西ドイツの間で「ナチスに関係した指揮者が率いるドイツのオーケストラがツアーする」ことに意味があった極めて政治的な演奏旅行であったため、ルーマニア生まれでナチスに協力した経歴がないチェリビダッケでは意味がなかったのです。そこをカラヤンが利用して常任指揮者に就任しました。ベルリン・フィル就任後の活躍と、晩年の対立は周知の通りです。 この3人の指揮者、実演を聴いたことがあるのは唯一、チェリビダッケです。1986年、ミュンヘン・フィルとともに来日した時に聴きました。確かモーツアルトの交響曲を中心としたプログラムで、よい演奏だったと思いますが、あまり印象に残っていません。ただ、演奏が終わった後、オーケストラに起立の合図を出して、客席に一礼し、、今度は着席の合図を出して座らせてから引き上げていきましたが、その一糸乱れぬ動きが強烈に印象に残っています。リハーサルやオーケストラのチューニングに時間をかけてこだわるチェリビダッケの完璧主義者ぶりが表れていたような気がしました。 「権力と野望の物語」などというようなキャッチフレーズで、確かにそういった面はあるのかと思います。ただ、欲しかったのは「権力」ではなくて、「最高の楽器」であるベルリン・フィルを自由に操って演奏することができる立場が欲しかったのであろうと思います。最高の楽器を使って最高の演奏を実現したいという、純粋な気持ちがあったのだろうと思います。カラヤンの1970年代頃までの録音を今聞き直すと、かなりはつらつとした印象の演奏で、弦楽の朗々とした響き、金管楽器なども磨き上げられた力強い響きです。アバドやラトルの演奏とは全く違ったオーケストラであるかのように思えます。 カラヤンは晩年、ベルリン・フィルと対立し、芸術監督を辞任し、直後にお亡くなりになります。その後、ベルリン・フィルはクラウディオ・アバド、サイモン・ラトル(カラヤンが主席指揮者に就任した1955年の生まれ)に託され、カラヤンのようなカリスマティックで独裁型の指揮者ではなくなりました。「独裁」が時代にそぐわなくなったのかもしれませんし、そのような「独裁型」指揮者がそもそもいなくなってしまったのかもしれません。私としてはカリスマ性を持った指揮者がいないのはちょっと寂しいです。 そんなことをいろいろ考えてしまった一冊でした。
by f16fightingfalcon
| 2007-02-11 23:48
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